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匿名でなければリークはしない [メモ書き]

この社会の、テレビの、メディアの違和感
なぜ責任感のないものが首相になれ、大臣になれ、公安の長になれるのか、
なぜ国会で明らかに日本の国益以外の法案ばかり話しているのか、
会議とは呼べない国会はなぜ日本の知能の集結ではないのか、
なにゆえに小沢が、前原が急に退陣させられたか。
退陣させられる一歩手前で行った行動は?
原発を調べていてなぜそこに行き着くのか?

裏を知れば全てつながって行く。裏から見ればそれらの動きの根源がよく分かる。
社会の裏に関する情報源は大抵が匿名である。 でなければ、彼らは消されるのだから。
実名で漏洩させている人間がいれば、「闇」側に飼われているのだ。



なぜ、K.I議員が暗殺されたか、彼の調査が裏の関連性についてだったからだ。
今となっては、それが彼の指摘が間違っていなかったことを示してしまっている。

イデオロギーあんま関係ない。
だから長続きしないでしょう。

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反社会的行動と言論規制 [メモ書き]

東電について調べれば調べるほど気が狂いそうだ。

彼らの会見に出てくる頼りなさげな方々、彼らは原発の安全管理者であり事故が起こった時を想定して管理するのが仕事ではないのか? 一体普段は何をしているのだ?  

発電所ほどマーケティング戦略の必要のない産業は、広告などもなくとも莫大な資金が集まるのだから組織を安全に持続させることに必死になることが仕事であり、勿論発電所と従業員の安全確保なしには話にならない。 義務をやらずに、甘い汁ばかりを吸い上げて責任取らずで。  原発にしても、この日本と言う国では建ててはいけないでしょう。 地震は必ず起こります。絶対に。

電力会社
その実体についてここに書くには尻込みしてしまう。
いわゆる「闇」との交渉人が上層部に配置されてしまうが為、メディアをお金でコントロールしている仕組み、そんな危険な方々にエネルギーがコントロールされている。 しかし、そうならざるしかないように出来てしまっているのは、またその裏に広がる「闇」が続くのですから。 
どんな立場である人間も正論は言えないのです。その組織の一部に依存しているのですから、間違っていても「明」と促す。吐く。撒き散らす。
だからこそ、機密のリークは起きるのです。ほとんどの人間はまともな人間です。仕方なしにそういわなければならないのは、自分達の生活がかかっているから。しかし、自覚しているのです。どれだけ洗脳されても。
それでも、どれだけ人間を洗脳してもその洗脳プログラムさえもバグるコトがあるのです。 人間が使命でもなくプログラムでもなく生きているのですから。
制御装置は人間には付いている。

下手に書くと、私が反社会的言論者とカテゴライズされてしまい、いらぬイザコザに巻き込まれかねない。
しかし反社会的なのはどっちだ? 

B層と格下に沈められる大衆の統率。 -これが、民主主義の正体であり金による魂の統制化。
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解説 [メモ書き]

絵画

とは歴史が古く洞窟に描かれた馬の絵が最初と言われている。 けれども、砂をえぐれば絵になるし、草木を集めてこれば何かしらの造形物にはなる。
美術品といえば、その寄せ集めの造形物も対象に含まなければならないのだけれども、絵画でいえば、洞窟の壁画でしょう。そこには、美術という概念はおそらくないのであってけれども絵をかくという革命が起きた。

しかし、美術という概念がなければ美術というカテゴリーは生まれなかったのであり、壁画を描いた本人は芸術作品を作ろうという意識は出来なかったのでしょう。現代にはそれが不確実な産物であれ、一応は美術史と、その歴史の分析の系譜あるのです。 
なぜ、その産物は不確実なのか。勿論「Art theory」という本は英語ですけど、何度も編集を重ね続けています。ぼくはあまり好きじゃなかったけれども、もう一度入手して分析したいと思っています。けれども、初歩数学やニュートン力学のように明確でないのは、絵画にはそれらのように万人に対して証明し納得させる普遍性はないからです。
数学では、素数の身体を使っての証明。 指の数が何本で何本で、だから10進法を使っていて、、、それは数を数える学習の上ではりんごであってもなんでも、まず物があって証明されます。
微分積分には勿論、指をつかって計算はうまくいきません。指から抽象された数字と言う概念の特性、それを数字だと認識して初めて機知に扱える計算法なのです。
数字と言う概念を指から切り離さない限り、うまくいかないと思います。
数字のカテゴリーの中に指はそんざいするものですが、数字を次の次元、この場合、微分積分には必要ないのです。理由は、効率的な数字を使う上でです。 

なぜだかは分かりませんが、事実数学の場合、抽象概念。つまり数字という記号を数学の基盤と捉えたことによって効率は飛躍し、微分積分などさらに効率的な機能をつくることができました。

実際微分積分が何に効率的に使えるかと言えば、何にでも応用できるのですが、例えばニュートン力学では加速の傾き方を微分する事によって、実際の速度の変化をいちいち計算するよりも効率的に計算することができるのです。 大雑把な事実なのですけれども、実際十分機能するのであたりまえのようにつかわれています。

絵画に関しては、抽象化が進んだモダニズムの頃に起きたのが、バウハウスという建築様態の変化であったり、デザインという概念、雑誌の表紙であったり、広告、プロパガンダ、挿絵、絵本。
絵画自体から切り離された、と言っていいのかわからないけれども、そういった利便性が生まれたわけです。

けれども、芸術と利便性は勿論切っても切り離せない関係なのですが、芸術はバウハウスやデザインとはまた別の系譜な気がします。芸術の根本は表現体の、樹木にたとえるなら硬い年輪のある幹なのであって、バウハウスやデザインは幹から派生した枝だと思うのです。 
ここで言いたいのは、デザインはおおまかに言えば芸術であるけれども、それはすべてではなくてむしろ枝なのです。でなければ、数字は数学だけれども、微分積分は数学でないと言えます。
むしろ、枝は木が完成される上で大切な要素です。

今日は、ここまで。
幹を見て枝を見ないのも木ではなく、枝を見て幹を見ないのもまたしかり。


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体系について [メモ書き]

体系は正統なものづくりには欠かせない。 
体系は一つ一つ個別の意味をもつ独立体が象徴的な統合性のもと形付けられる政治体制だ。

現代アートであったり、想像界の産物であってもなんだっていいが、ものづくりでもっとも重要なのは、ある一定の原理によって統合された組織からなる集合体をつくる事。つまり体系を構築することだ。 
カテゴリーによる部類わけ、似たものの寄せ集めも勿論大切だけれども、もっとも大切な事はそれらが一定の原理によって意味づけられていることだ。でなければ意味をなさないただの集合体になる。
それらの問題点は、意味による結束がないためにそれらの組織を維持する事ができず、やがて崩壊する。 
もしかすると、それらの集合体は重要な意味を持つ集合体かもしれない。けれどその関連性と機能性を確認するためには批評が重要な作業なんです。 なんの結束力のないもの同士が集まった場合、それはたまたまでありまたどこかへ旅たちます。

その知識とそれから集合される体系を創る初期の方法の一つは数学的理論の創りかたです。「~ゆえに~である、ゆえに~である。」と。それらの持つ抽象的意味合いから他の意味合いに連結させていく方法です。つまり関連性を理由によって連結させていく方法です。
数字を使わない数学的理論もなりたちます。なぜなら数字も抽象化されたシンボルであり、言語もシンボルだからです。だから数式で編み出された単純かつ万能な+/*-の記号はある程度初歩的分析につかえるのです。

 けれども、言語と同様に数字も不確実性を持ちます、なぜなら抽象化の目的は一般的意味合いを共用するためにあるので、ひとりひとりの人間の認識の不確実性を包括させた、つまりおおまかな表現にならざるをえないのです。 しかし、ひとつひとつのおおまかな表現も一つの原理によって統合されるとさらに明確な意味を持ちえます。それらの一つ一つの表現に制約が加えられ、ある一定の意味を指す言葉になるからです。 それはまさに一つ一つの単語自体では状況を説明する事ができないけれども、全うな文法で表現されると凝縮された意味をなすのです。


しかし、分析はできても作品作り上の体系を設定するには芯になりえる原理がない。
方法や理論、批評は体系的に構築していると錯覚していたが、その体系がどれだけ価値をもち、もち続け、どう進化できるか、そういったことを十分に理解し意識はできていなかった。

そんなこんなで、たまたまであったドラッカーに芸術にも応用できる体系を組み立てる凡用性があると確信している。
彼の本は一見如何に企業と社会を健全な形で位置づけるかが目的にみえるけれど、芸術作家はひとりひとりが一企業の経営者であり組織であり、その組織を存続させる義務があるという点では企業家となんら変わりはない。
十分応用できるというか、あたりまえに持っていなければならない自由と責任についてさらに深く気づかされたんだ。ただ芸術は自由のためにあると言うのは誰でも言える。たまたま幾らか作品が売れたからと言って調子に乗れるのでは生き残れない。
体系とは秩序のある組織であり、その組織の存在理由つまり体系の存在理由でありいかにしてその持続は可能であるかの母体を明確にし分析しなければならない。そして、その組織をいかにして現実社会に貢献できうるかを十分に検討し社会と関わらなければならない。
発展可能であり健全な体系の組み立て方、それは数学的組み立て方よりも実用性、つまり芸術作品を創るうえでの目的の定め方、自分の作品への強みとその理解と生かし方を彼ほど明確に提示できたアナリストは初めてだ。
 


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機能する産業社会 ードラッカー [メモ書き]

「産業人の未来」より9章改革の原理、「保守主義による新しい社会の創造」をそのまま今の日本の社会の鏡として見る事もできる。ええ事ばかり言う奴は基本的に信用できないけれど、聞けば聞く程嘘はばれる。しかし嘘とかなんとか言っている次元ではないと思い、その文を載せる。載せなければならないと思っている。確かに第二次世界大戦中に書かれた古い文だけれど、未だに解決していない重大な問題だとおもう。

『 機能する産業組織が成立するための条件を知っている。
 第一に、それは、産業組織すなわち企業に働く1人ひとりの人間に対し、社会的な位置と役割を与えなければならない。そして彼らを社会の目的の実現のために参画させなければならない。
彼ら1人ひとりの目標、行為、欲求、理念に対し、社会的意味づけを与えなればならない。
 第二に、産業組織すなわち企業内の権力の正統性を確実なものとしなければならない。その権力は、社会的、政治的権力のための正統な基盤として認められる倫理的理念から導きださなければならない。
 第三に、その権力が現実化される組織そのものを、社会の基本的な目的に合致したものにしなければならない。
 また、われわれは、自由を成立させるための条件も知っている。
 第一に自由な社会を成立させるには政治的な自由を確保しなければならない。すなわち政府の権力を、制御し、制限し、責任あるものとしなければならない。
 第二に、社会の中心領域において、市民一人ひとりの責任ある意思決定をあらゆることの基盤としなければならない。
 第三に、自治を実現しなければならない。法的、形式的な民主主義を実現するだけでは十分でない。政府とその意思決定に市民一人ひとりの責任ある参画を実現しなければならない。
 第四に、政治的な政治と社会的な支配を分離し並置しなければならない。互いに独立したものにしなければならない。いずれも制限しなければならない。いずれもが、究極的には同一の社会目的に仕えるようにしなければならない。しかも、それぞれの権力の基盤を別のものに置くようにしなければならに。』

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
と、
最近聞いてしまうのがこれ


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自由とは何か -ドラッカー(産業人の未来) [メモ書き]

自由とは楽しいものではない。それは幸福のことではない。安定のことでもない。平和や進歩のことでもない。科学や芸術が栄える状態のことでもない。清廉かつ善意の政府のことでもなければ、より多くの国民のためのより大きな福祉でもない。とはいえ、自由はその本質からして、それらのものすべて、あるいはそれらのもののいくつかが価値とするものと相容れないということではない。もちろん両者は相容れないこともありうるし、事実相容れないことがある。
 自由の本質は別のところにある。自由とは責任を伴う選択である。自由とは権利というよりもむしろ義務である。真の自由とは、あるものからの自由ではない。それでは特権にすぎない。自由とは、何かを行うか行わないかの選択、ある方法で行うかの選択、ある信条を信奉するか逆の信条を信奉するかの選択である。
 自由とは解放ではない。責任である。楽しいどころか一人の人間にとって重い負担である。

ーP138
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ドラッカー「産業人の未来」 [メモ書き]

第二次世界大戦中にかかれた彼の文は高次とも呼べる凡用性があるために、現代の日本にある問題点をも挙げている。

『 今日最大の誤りは、「無秩序な大衆」への賛美である。かかる大衆は社会の解体の結果にすぎず、有毒な腐敗物に過ぎない。
 とはいえ、本当の危険は、ホセ・オルテガ・イ・ガセットがいう大衆の反逆にあるのではない。反逆もまた、単なる抵抗にすぎないかもしれないが、社会へ参画の一形態である。危険は、社会的な価値や制度が存在しないために社会への参画が不可能になることにある。無関心となり、しらけ、絶望にいたることにある。


 大衆にとって社会は、そこに自らの位置と役割がなければ、不合理で理解不能な魔物以外の何ものでもない。さらに、そこにおける権力に正統性がなければ、専制、専横以外の何ものでもない。
 そのとき彼らは不合理の魔力に従う。変化を約束する者でありさえすれば、専横の独裁者にさえ身を投げ出す。社会をもたない大衆にはうしなうべきものがない。失うべき鎖さえない。しかも理念をもたない大衆は、彼らを思いのままにする専制者に抵抗すべき自らの組織的、制度的基盤をもたない。
 信条をもたない大衆は、既存の社会秩序以外のものであれば何でも飲み込む。いい換えるならば、彼ら大衆は、権力のための権力をねらう専制者や煽動家の餌食となる。秩序をもたらしうるのは、彼らを奴隷としてすべてを否定したときだけである。機能する社会に組み込むことができなければ、彼らに秩序をもたらす方途はない。
 秩序なき大衆が数を増やす社会に明日はない。もちろん罪を負うべきは、社会の失敗の犠牲者である大衆ではなく、彼らを組み込むことに失敗した社会である。しかし罪はなくとも、秩序を失くした大衆には毒性が生じる。」
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ドラッカーによる [メモ書き]

ハイヒール・ビバップで彼P.F.ドラッカーの存在を知った。
「もしも野球部のマネージャーがドラッカーのマネージメントをよんだら」の著者の回です。

その作品はまだ読んでいないけれど、いずれ読もうと思う。
なかなか昔ほどフィクションを読むには惹かれなくなってしまったのはこの、なんたらは小説より奇なりという点と、単純に現実が悲惨な局面であり、僕なりに解決法を探す手立てはないのかと模索しているからだ。

今手元にあるのは「産業人の未来」という本だけで、図書館に貯蔵されている彼の出版物はこの作品を除いて全て借り出される人気ぶりです。

本中には「正統ならざる権力とは、社会の基本理念に基づかない権力のことである。」とあるが、管内閣にとって、歴代の内閣にとって「基本理念」とはなんなのか。 それがわからなければ正統性なんて分からない。

  
「支持率が0%になってもやめない」とは報道で聞いた話だから、まともに考えるのもどうかと思うけれど。。。
政治家の意思や決断をする事は大事な事でしょう。けれども、他の党や議員を説得させる手段として、その意思や決断を肯定的に押し付ける発言ばかりで説得できるわけがないでしょう。。。 

それに支持率なんてどうせ情報操作とも呼べる不公平な調べ方だろうし、その政党の価値判断の基準としては不完全な資料だろう。 それがもしも0%になってもやめないと思っているのならば、限界を知らない権力者であり、それはドラッカー的には正統ならざる権力者であると言っていると同じだ。

「 正統ならざる権力には限界がない。権力の行使に限界を設定するということは、権力が正統でなくなる限界、すなわち社会的な目的の達成に関して限界を設けることである。しかし、最初から権力に正統性がないとするならば、正統でなくなる限界そのものが存在しない。
  さらに、正統性なき支配は、善い支配とも優れた支配ともなることはできない。正統ならざる権力は必ず腐敗する。なぜならば、それは権勢にすぎず、権威とはなりえないからである。制御不能であって無制限、しかも無責任だからである。したがってそれは、正統性からどんどん離れていく。」 (ドラッカー著『産業人の未来』より)

管内閣に対してのみ言えることではないのが、ドラッカーの抽象表現の解明と有効性だと思うのは、それが今の内閣だけでなく、小泉の時もそれ以前もほとんどの日本の政治が正統な権威によって運営されているのではなく、その場しのぎのファッション感覚で現れる権勢に過ぎないからだ。



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不完全であるが故に [メモ書き]

仏教とキリスト教の違いを苫米地英人著「CIA洗脳実験室」の最後のコンテンツ、宮崎哲弥氏との対談で非常に分かりやすい内容で書いてあった。

仏教は死後の世界を前提に見ているので、肉体を持たない魂。つまり情報としての存在の視線から見ている世界観だろう。
それは、「人間がもともと(無意識に)宗教心、信仰心、超自然現象に対する憧れなどを持ちやすい存在である」という事実から、情報としての完璧さを追求するのが人であるという教えでもある。その情報としての完璧さをより追求する目的のために、遺伝子があり、器官があって、より高度な情報処理をこなすために脳が進化してきた。という。

それに対して、キリスト教はまず完全世界(アダムとイブの世界)があったけれど、いろいろな事情で完全状態がズレてしまった。そのズレた差分を穴埋めするために脳を発達させて情報空間を広げていった。という見方。 しかし、そのズレを穴埋めできるのは唯一の神のみであると。

数学の虚数はどこか、キリスト教圏で生まれ育った概念として納得できる。直線的で完璧を求めている限りは、この踏みしめている地面を裏側から見るような考えは出てこないんじゃないかなと思う。 

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民主主義でいいのです [メモ書き]

民衆の意見は本来無責任なものなのだと思います。
民衆という地点で一個人としての責任は持っていない。
それが、集団の力であってチャクラの根源的なチカラであるのは間違いない。

しかし、集団の力は他力本願と調和意識から避けられないものであるし
民衆の意見はメディア洗脳で幾らでも統率できてしまうのは、
だれも面倒な理論構造にはついてくる努力はしないからです。
調和意識は当たり前、集団のチカラは常識があれば
だれもが持っています。

「なぜ」という問いなどいらなくて、
普通はこうだという不文律に表面上の餌に釣られるのが、
大衆とは言いたくないが大衆なのね。

ただ、なんとなく

こう日本がころころ変わってるけど、


そんなに人格コロコロ変えたらいかん。
人格というか国格とおもう。


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